働き方改革 在宅勤務備忘録 その7 ~通勤編

POINT
  • いつでも自宅!の落とし穴
  • 帰る、というルーティン
  • 在宅勤務ストレス

恐らく在宅勤務を始めて、その素晴らしさに感激した方が多いかと思います。実はわたしもそのひとり。オフィス設計職にとってなんともうれしいような悲しいような事態です。なぜ感激するのか?だって通勤がなくなります。私は会社まで片道一時間半、千代田線に乗って行きますから、一日あたり三時間、自由な時間が増えました。時間があるというのは豊かなこと。それに異を唱える人はいません。私も家族との時間が増え、睡眠の時間が増え、趣味の時間が増えました。ああ、なんと素晴らしいことか…ですが、「通勤がなくなること」は別の問題を生んだようです。
こう言うと「なに?通勤がなくなって、損をしたやつがいるってのか?」と思われることでしょう。ええ、私も最初は、通勤なんてないに越したことはないと、心の底から思っていました。会社と家がワープ装置でつながっていたらどんなに楽だろうか、と。ところがそれは完全に自分の思い上がり、自分が恵まれた環境にいるからこそ気が付かないことだったのです。今回は通勤、とりわけ「帰宅」に関して、お話ししましょう。

いつでも自宅!の落とし穴

一部の人にとって、通勤がなくなることとは、手放しに喜べるものではありませんでした。それは仕事に問題を抱えた人です。在宅勤務は読んで字のごとく、家で働くということ。それはすなわち、家と職場の境目がなくなるということを意味します。職場が家となり、家が職場となる。これは仕事に問題を抱えた人にとって非常にやっかいなことでした。なぜか?それは彼らから休む場所を奪うからに他なりません。

働き方改革が進められてからというもの、日本の働き方にも「時短」や「効率化」の文字が躍るようになりました。早く簡単に済むならそれに越したことはなく、無駄な残業は減らしましょう、と誰もが声高らかに叫んでいます。でも本当にそう思っているのでしょうか?心のどこかでは必死に働いている姿勢(ポーズ)を求めているのでは?私は決してそれを否定しません。時間とは誰も平等に与えられた有限の資産、それを費やしてまで取り組んでくれるというのは、それだけで気持ちのこもった、価値のあることなのです。だから私たちはプロの料理よりも家族の手料理のほうが美味しいと感じるし、プロの似顔絵よりも子供の似顔絵のほうが暖かいと感じます(よね?)。それは人として全く正常な判断であるといえるでしょう。

帰る、というルーティン

人は気持ちを切り替えるときに、一種の儀式を行います。イチローがバッターボックスでポーズをとるように、C・ロナウドがフリーキックのときに仁王立ちになるように、ルーティンとして行うことがあるのです。仕事の前に顔を洗う、コーヒーを飲む、新聞を読む、体操をする…人によってそれぞれ異なることでしょう。スーツを着ると身が引き締まる、ネクタイを緩めるとリラックスする、なんてのもそのひとつです。またあるいは、部屋を片付けることが気持ちの整理につながったり、バッティングセンターで快音を響かせることで気持ちが吹っ切れたりするように、人は自分と物の物理的な関係を、そのまま心に結び付けることでも知られています。そんな中で、ひとつ私が注目したいルーティンがあります。それは多くの人にとって共通される、スイッチをオフにする儀式、「帰宅をする」ことです。

私は「帰宅」を非常に強力な儀式であると考えています。この儀式はまずひとつに、物理的に職場から離れ、そして仕事をする手段を奪います。家に帰ってからコピー取ってきて、なんて言われてもどうしようもありません。そして(多くの場合)、帰宅には時間がかかります。20分から30分かけて、ゆっくりとスイッチをオフにしているのです。受験勉強のころ、わたしはよく休日に学校に行き、勉強をしました。それは学校が勉強をする場所と強く認識していることを利用し、自転車で40分かけてそこに行くことで、勉強のスイッチをゆっくりと入れていたのでしょう。同時に遊び道具からも物理的に離れ、集中のきっかけにもなります。「帰宅」はまさにその逆です。職場とは仕事をする場所である、家とは休む場所である、という認識。そして物理的に仕事する手段を奪う。そうすることで、何が何でもリラックスへと気持ちを向けることができる、まさにスイッチオフの儀式であるといえましょう。帰りの電車の様子を思い出してください。誰もがスマホを触ったり音楽を聴いたり本を読んだり、あるいは疲れ果てて眠ったり。思い思いのリラックスの準備をしてはいませんか?千代田線流なら缶ビール。とにかく、帰宅するとき、人は「ふぅ~」と大きく息をつくものです。「よし!」と意気込んでスイッチオンの目を輝かせる人は、まあ少なくとも千代田線では見かけません。

ところが在宅勤務はその儀式を許しません。通勤がなくなるので、スイッチをオンにすることも、オフにすることもなくなりました。在宅勤務が始まったとき、なかなか身が入らないことにピンと来た人は多いようです。そこで、家で働くというのにわざわざスーツに着替えたり、散歩したり、体操をしたり、それぞれがいろんな儀式でスイッチをオンにしてきました。ではオフにするスイッチは?家着に着替えて、お化粧を落として、お風呂に入って…それで本当に充分なのでしょうか?特に机を十分に確保できない家庭では、仕事をする机と食事をする机とが同じこともあります。PCをしまい込む場所もなく、いつも視界に入るところだってあるでしょう。そして何より、スイッチをオフにする時間があまりに少なすぎます。学生のころ私は剣道部にいました。ご存じでしょうか?剣道の団体戦では、前の人の勝敗が決してから次の試合が始まるまで、10秒もありません。あっと負けて、サッと始まります。気合を入れる暇も集中をする暇もなく…私はそれがどうにも苦手でした。準備の時間が長ければ良いというわけではありませんが、同じように短ければ良いというわけでもありません。特に自宅と職場が同じ環境となれば、生活と仕事はシームレスにつながり、スイッチの切り替えは本当の意味でゼロ秒です。定時になってハイ終わり、で心を切り替えられるほど、人は器用にできちゃあいないのです。

在宅勤務とストレス

また在宅勤務という仕事の性質も、スイッチのオフを邪魔します。在宅勤務ではとにかく残業時間がうやむやになります。いつでも仕事ができる環境とは、返せば職場で寝泊まりしているのと同様で、今日中にあれやっておくか…そういえばあれも…という具合に、いつでも作業ができるが故に、終業時間を過ぎてもちょっとした仕事をついついやってしまいがちに。それまではオフィスに入ってから出るまでが仕事でしたが、在宅勤務中ではいったいどこからどこまでが仕事なのでしょう?メールチェックは?返信は?その線引きは誰もしてくれず、自分でするしかありません。なので、同様の仕事の仕方を相手にも要求しがちです。どうせ家にいるんだから、これくらいやれるはずだろう、という気持ちで、相手に連絡してしまうケースがあるのです。

コミュニケーションツールも弊害のひとつでしょう。在宅勤務は必然的に社員同士が離れますから、ツールを使ったコミュニケーションが促進されます。メールはより活発になり、ちょっとしたことでも電話に頼らざるを得ず、会社によっては私たちのように、チャットが用意されることもあります。先ほどの残業がうやむやになることもこれに加わり、ちょっとした作業をお願いしたいときに、これくらい…という気持ちでお願いしてしまうかもしれませんね。

このように、「帰宅」というルーティンが失われることで、心の平穏が崩れることがあります。心の平穏を崩す要素がたくさん起きる、と言ったほうが正確でしょう。誰もが誰もこうなるわけではありません。ところが誰もが誰もなるわけではないからこそ、また厄介な問題なのです。次回はそんな在宅勤務で休息の居場所をなくした場合の対処について、考えてみましょう。

WPD/S・O